【横田印房の歴史】


− 創業 −

明治29年10月10日、広島市幟町65番地にて、横田仙吉(現社長の曾祖父)が、印材製造業として個人で創業しました。
五日市八幡から越してきた仙吉は当初鉄砲町に居住し、カツと結婚後、幟町に移住して店を構えた模様です。手先の技術を持っていた仙吉は当時、橋本町で大野印房を営業していた友人である大野国太郎に勧められて印判(ハンコやゴム印)の材料を提供する仕事を始めたようです。当時は屋号を「ヨコタ印材店」と言いました。

− 2代目とその弟 −

大正9年に仙吉の長男の義郎が2代目として跡を継ぎました。
芸術院会員の画家・日展元理事長の寺坂公雄画伯は実家が上流川(今の鉄砲町)で「寺坂写真館」を営業しており、子ども時代に、ヨコタ印房に中国新聞の写真用の版木を取りに行くお手伝いが日課だったそうです。
仙吉の次男の勇は橋本町の大野印房に住み込みで修業し、大正15年8月6日大野印房の娘ツネと結婚、「大野號ヨコタ印房」というハンコ屋を開きました。その後、昭和7年に勇が病で亡くなり、ツネは長男・清、次男・啓二を連れて大阪に疎開しました。

− 被爆と終戦 −

昭和20年8月6日、原子爆弾にて幟町の横田義郎の一家は被爆。母のカツ、長女の俊子、次女のミドリの3人はほぼ即死、義郎も原爆症にて昭和23年に亡くなります。
大阪に疎開していたツネと予科練宝塚航空隊に所属していた次男・啓二は新型爆弾投下の知らせを聞き、終戦後直ちに広島に帰りました。

− 3代目 店の再開 −

広島に帰った啓二は9月から向洋の「安藤印房」さんにハンコ屋修行に入りました。
昭和20年11月、ゴム印が彫れたツネ(三代目)は向洋大原町のバラック小屋にて「ヨコタ印房」の看板を出して営業を再開しました。ゴム印とハンコの注文を受けて糊口をしのぎました。
昭和22年7月にはもともと「ヨコタ印材店」のあった幟町65番地に復帰し、啓二が営業を引き継ぎました。

お店の前で撮影

− 現在地へ −

昭和24年4月に都市計画による換地で、南側にあった幟町小学校と位置が入れ替わります。もとは小学校の正門付近であった現在地・幟町11番4号に移転し、現在に至ります。ここで印章専門店として「ヨコタ印房」の看板を上げます。

昭和30年頃の外観

− 4代目 法人化 −

昭和32年3月、資本金100万円にて法人に組織変更し、横田啓二が代表取締役となり「有限会社 横田印房」と改称しました。
この年の8月21日に長男・泰行が誕生しました。
昭和30年代は住み込みの職人、通いの職人、木口の職人のほかゴム印専門の職人もいて常時3〜5人の職人が店にいました。

昭和40年頃の外観


職人さんの仕事場

 

− 5代目 −

平成4年5月1日、啓二が65才になったとき会長に退き、泰行が代表取締役に就任、5代目となりました。資本金を300万円に増資、翌平成5年に店舗を現代的に改装し現在に至ります。

平成2年頃の外観


店内風景

 

− 現在 −

平成19年10月31日からぎゃらりいSARAにて創業111周年記念社中展を開催しました。
平成28年10月10日、創業120周年を迎え、現在に至ります。

現在の当店

− 表彰 −

昭和37年公印偽造行使の防止により郵政監察局から感謝状
平成28年創業120周年で商工会議所から表彰状